琴海の嵐(4)

 

斎藤弥九郎
氷見出身、寛政10年(1798)~明治4年(1871)

斎藤弥九郎の男子、新太郎(二代目斎藤弥九郎)、歓之助、四郎之助、五郎之助

 

渡辺昇は、身長が6尺(約180cm)以上で、当時としては圧倒的な体躯を持ち、その身体で練兵館道場の並み居る剣士たちを押しのけ、入門して1年も経たずに塾頭に推されました。渡辺昇を塾頭に推薦したのは桂小五郎でした。小五郎は、長州藩内での公務(応接役=外交役)が忙しくなり、塾頭として練兵館に関わることが難しくなったため、後任を探していたのですが、小五郎の目に適ったのが渡辺昇だったのです。

実は、長州藩でも、大村藩と同じく、斎藤新太郎が西国修行の旅路で立ち寄り、長州藩士を相手に剣で打ち負かしました。その仕返しとばかりに、腕に覚えのある長州藩士が練兵館道場を訪れ、試合を申し込んだのですが、その時の相手が斎藤歓之助で、やはり、長州藩士たちを散々に打ち負かしました。これを機に、長州藩も己の剣の未熟さを悟り、練兵館に多くの藩士を入門させたのですが、そのときの一人が小五郎(下写真)でした。

小五郎は、入門して間もなく、剣の上でも、人格面でも抜きん出るようになり、斎藤弥九郎は塾頭に任じたのです。その小五郎が、自分の後任に選んだのが昇であったのです。

練兵館は江戸三大道場の一つでしたが、常時、門下生が二千名を超え、それらの門下生を剣で凌駕し、そのうえで、人格的にも、見識でも、皆から、一目置かれるような人物でなければ塾頭にはなれません。小五郎は、まさに、そのような人物であったのですが、その小五郎が自分の後継者に昇を選んだということは、昇が、単に剣の達人というだけの人物でなかったことを裏付けています。

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小五郎は、練兵館創始者である斎藤弥九郎(初代)と、その長男で後継者である斎藤新太郎(第二代斎藤弥九郎)に相談し、渡辺昇を塾頭にすることが了承されました。斎藤歓之助の愛弟子が渡辺昇だったので、斎藤弥九郎にとって、自分の次男が鍛えた渡辺昇を塾頭にすることに抵抗はなかったものと思われます。