琴海の嵐(16)

渡辺昇は、練兵館塾頭時代に異色の友人ができました。それが、後に新撰組の局長となる近藤勇天保5年(1834) 慶応4年(1868)です。

近藤勇 Wikipedia より

近藤勇は、武蔵の国、多摩郡上石原(現、調布市)の農家の生まれですが、剣術が好きで、天然理心流を学び、市ヶ谷牛込にある試衛館道場に入門しました。そして、目録を受け、道場主近藤家の養子になり、理心流宗家を引き継ぎました。

試衛館道場とはいえ、練兵館とは比べものにならないくらいの小さな道場で、道場破りの手ごろな獲物でした。腕に覚えのある、浪人や御家人など、道場破りで生活費や小遣いを稼いだり、腕試しをしたりする者が多かったようです。

大きな道場には、さすがに手練れの門弟が多く、道場破りをしようとしても、次々と対戦相手が現れて、結局は破れてしまいます。しかし、試衛館は、門弟も少なく、道場主の近藤勇も農民出身で、道場破りも甘くみたのでしょう。

どのような機会に渡辺昇と近藤勇が知り合ったのかはわかりませんが、もしかしたら、練兵館の稽古総見を近藤勇が覗いた時かもしれません。

いずれにせよ、渡辺昇に近藤勇が近づき、道場破りを撃退してくれれば、謝礼と酒席を用意するとでも誘ったのでしょう。渡辺昇にとっても、小遣い稼ぎと酒にあり付けますし、腕も試せます。さらに、近藤勇は、当時、尊王攘夷の論客を任じていましたので、意気投合したのかもしれません。

練兵館と試衛館の間は、急ぎ足で四半刻(約30分)とかかりません。道場破りが来て、強そうだと、近藤勇は「上の中」とか「上の下」とかの書き付けを使いに持たせ、渡辺昇が応援に駆け付ける、といったことだったようです。

当時、試衛館にいた土方歳三沖田総司永倉新八山南敬助なども一緒に酒を飲んだのかもしれません。

大佛次郎原作、「鞍馬天狗」の映画の中でも、近藤勇が、鞍馬天狗、こと倉田典膳に友情を覚えている場面がしばしば出てきますが、これも、渡辺昇が鞍馬天狗のモデルとされる所以(ゆえん)かもしれません。

近藤勇らは、文久3年(1863)2月、京都での浪士隊結成の呼びかけに応じて、江戸を離れ、やがて京都で会津藩預かりの新撰組を結成することになるのですが、当然に幕府派で、池田屋事件(元治元年(1864)6月)を引き起こし、勤王派の浪士らを斬殺したり、捕縛して獄死させたりして怨嗟の的となります。当然に、渡辺昇と近藤勇は敵同士となります。

 

琴海の嵐(15)

練兵館塾頭に就任した渡辺昇は、いくつかの藩の藩邸に出稽古に行きましたが、なかでも、水戸藩上屋敷(現、小石川後楽園から東京ドーム、後楽園遊園地一帯)へは、斎藤弥九郎が水戸斉昭と親しかった関係で、出かけたようです。これは、塾頭時代の桂小五郎も同じで、弥九郎か小五郎か、どちらの紹介かはわかりませんが、昇は、水戸藩の重鎮、武田耕雲斎享和3年(1803)- 元治2年1865)の面識を得ます。

万延元年(1860)当時、耕雲斎が仕えた徳川斉昭は、安政の大獄で蟄居幽閉の憂き目にあっていたのですが、この年8月に、幽閉先の水戸で急死しました。多分、この前後の頃と思われますが、水戸藩邸で昇は耕雲斎から声をかけられました。

武田耕雲斎 Wikipedia より

桜田門外の変で多数の水戸藩士が井伊大老襲撃に加担し、その原因が、井伊大老による斉昭への処罰に対する報復にあるとされ、耕雲斎も一味ではないかと疑われた時期でもありました。そういうこともあり、耕雲斎は、斉昭の死去により、職を解かれ、水戸藩執政の場を追われていました。

ただ、昇にとっては、若い頃に尊王の精神を学んだ水戸学の大家、藤田東湖と並ぶ耕雲斎の知己を得たことは、大きな収穫でした。自伝でも、耕雲斎に会い、親しく話しかけられたことに感動した様子が書かれています。

耕雲斎は、後に、藤田東湖の子(四男)、藤田小四郎が決起した天狗党の乱で、これを止めようとして小四郎に会いますが、逆に、首謀者に引き入れられ、天狗党を率いることになりました。その後、天狗党は幕府側の軍勢に押されて各地を転々とし、最後は敦賀まで逃げ、当時の禁裏御守衛総督であった一橋慶喜(後、徳川慶喜)を頼ったのですが、捉えられ、斬首されます。

この時、昇は、大村から京都に上っていたのですが、敦賀まで耕雲斎が来ていることを知り、耕雲斎の下に馳せ参じようとさえしたのですが、断念しています。

いずれにせよ、耕雲斎は、昇にとって、勤王の道を進む上での道標のような存在となり、反幕、やがては倒幕に舵を切っていくことになります。

琴海の嵐(14)

昇は、練兵館塾頭に就任するや、交友の範囲が広がっていきました。それは、まず、練兵館創始者の初代斎藤弥九郎篤信斎)の関係先から始まり、次いで、桂小五郎の活動範囲とも重なってきます。

篤信斎は、練兵館道場の創設にあたって資金援助をしてくれた伊豆韮山代官の第36代江川太郎左衛門(英龍)と第37代(英敏)に手代として仕え、領地である伊豆の海岸防備や鉱山開発に尽力したり、同じく領地の甲斐の巡察をしたり、韮山反射炉の建設を手伝ったりしています。

第36代江川太郎左衛門英龍 Wikipedia より

また、篤信斎水戸藩とも関係が深く、剣術指南だけでなく、水戸斉昭の意を受けて、一橋慶喜の将軍位承継のための根回し工作にあたったりして、藤田東湖などの勤王派藩士とも深く関りを持ちました。

徳川斉昭 Wikipedia より

ただ、安政の大獄で水戸斉昭が蟄居させられ、その余波で篤信斎も幕吏の追及を受けそうになりましたが、桜田門外の変の後の政変で、何とか、追及を免れました。

この間、篤信斎に付き添っていたのが桂小五郎で、小五郎自身も勤王派の人物として、知られるようになりましたが、長州藩の要職に就いたために、一旦、練兵館から離れることになり、その後を継いだのが昇でした。

しかし、昇が、江戸に出たころは、大老井伊直弼の下で弾圧が進行中でしたが、その後、練兵館の塾頭に就任した直後に井伊直弼は殺害されましたので、時代は、徳川幕府の終焉が見え始めたころなのです。

そのような中、篤信斎と昇の間で、時代を反映するようなエピソードが昇の自伝に記されています。

当時、篤信斎は代々木に三千坪を超える広大な土地を手に入れて山荘を構え、練兵館は新太郎(二代目弥九郎)に任せていました。昇は、塾頭に就くと、寝起きの場を大村藩邸から練兵館に移していましたが、篤信斎から練兵館に残している重要な書状を代々木の山荘に運んでもらいたいとの頼みがありました。

新太郎の話では、幕府が篤信斎の行動を疑い始め、捕縛する証拠を探しているが、篤信斎が練兵館に残している書状が、もし幕府の手に渡れば、面倒なことになるということでした。安政の大獄で処分を受けた人物とやり取りした書状でしょう。まだ、井伊大老が権力を振るっていたころだと思われます。

新太郎は、昇に、練兵館を見張っている奉行所密偵の目を避けて運ぶようにと命じましたので、昇は、面や胴を入れる信玄袋に、それらの道具と一緒に問題の書状を隠し、代々木の山荘まで運びました。

篤信斎は昇が運んできた書状を見て安心したようで、すぐに庭で火をおこし、書状を焼いてしまったのです。

昇は、篤信斎の裏の面をみたように思ったと、自伝に残しています。

 

琴海の嵐(13)

安政7年(1860)3月3日、江戸城桜田門の手前で大老井伊直弼水戸藩浪士らに討取られる事件が発生しましたが、その後、幕府は、世の不吉さを振り払おうとしたのか、朝廷に願い出て、3月18日に元号が万延と改元されました。

しかし、そのような幕府の願いを他所に、安政の大獄にみられた強権政治の反動でしょうか、段々と幕府の独善政治に陰りが見え始めました。

この頃、桂小五郎は、国元の長州と京都と江戸の間を行き来し、また、江戸藩邸の藩校有備館の御用掛も兼ねて、忙しい日を送っていました。その付き人が、後の伊藤博文で,

当時は、伊藤俊輔と名乗っていました。

伊藤は、元の身分は農民でしたが、父が奉公先で下級武士の地位を得たため、それを受け継ぎました。そして、長州藩の軍制改革に当たっていた来原良蔵の付き人となりましたが、来原の勧めで、吉田松陰松下村塾に通い始め、高杉晋作らの塾生とも知り合いになりました。

来原は小五郎の義弟で、小五郎が次第に忙しくなってきたので、自分の付け人であった伊藤を小五郎に譲りましたが、小五郎は伊藤に「武士らしく、剣を習え」と申し渡し、練兵館に通うように命じました。その際、小五郎は伊藤を昇に紹介し、剣を教えるように頼みました。

武士としての伊藤博文(俊輔)Wikipedia より

こういう経緯があって、伊藤は昇から剣を学びましたので、二人の間に師弟関係が生まれました。ただ、伊藤は昇が苦手だったようで、それは明治時代に伊藤が内閣総理大臣に就いてからも変わりませんでした。

伊藤の他にも、昇は、多くの長州藩士と知り合いになっています。なぜなら、練兵館自体が長州藩士を多く受け入れたからです。その契機が、斎藤新太郎(二代目弥九郎)が廻国修行と称して、神道無念流を日本国中に広げるために西日本各地を訪問した中で、長州藩を訪れた際、長州藩藩士たちが新太郎に散々に負けたことにあります。

長州藩では、これは恥だとして、来嶋又兵衛ら、藩きっての遣い手が江戸の練兵館道場に殴り込みをかけたのですが、留守を預かっていた、新太郎の弟、斎藤歓之助に再び撃ち負かされました。

これで長州藩も目が覚め、練兵館藩士を送り込んで、鍛え始めたのです。練兵館に入門した長州藩士として、最初に挙げられるのが桂小五郎ですが、高杉晋作太田市之進など、幕末に活躍する長州藩士たちの多くが練兵館に通いました。

当然に、昇も多くの長州藩士と知り合いになったり、伊藤のように、直接に教えたりしました。

琴海の嵐(12)

さて、江戸の昇はどうなったのでしょうか。

昇が練兵館の塾頭になったのは、安政7年1月ではないかと思われます。塾頭になれば、大村藩邸からの通勤というのは許されません。塾頭は、塾長である斎藤弥九郎に代わって塾生の剣の指導をするのが第一の役目ですが、二千名を超える塾生を、一時に道場に集めて指導するわけには参りません。人数と日時を細かく分散します。

当時の昇の様子を、練兵館に通っていた塾生が回顧していますが、夜明けから日暮れまで、相手は変わるが、主(昇)は変わらず、相手に打ち込ませて「惜しいこと、惜しいこと」と言って躱(かわ)しながら、手筋を教えていたといいます。

目録(免許)授与の候補生を塾長に推挙したり、その実技試験の相手をすることも塾頭の仕事です。

また、練兵館には塾生が全国の藩から集まり、その多くは自分の藩の藩邸から通っていましたが、中には、練兵館に寄宿する者もいましたので、その者たちの生活管理も塾頭の役割でした。とくに、塾中法度(規則)があり、門限や飲酒などの生活態度を注意し、病気や喧嘩などにも気を配る必要がありました。

こうして、昇は、練兵館に居を移して、塾頭としての役目に励む毎日となりました。

当時の昇の補佐は、長州藩太田市之進(後、御堀耕助)でした。太田は、昇が小五郎に連れられて練兵館に来た際、斎藤弥九郎が昇の腕前をみるために、最初に対戦させた相手でした。結果は、一撃で昇が太田を失神させ、それ以来、太田は昇の傍を離れずに付き従うほどになりました。練兵館での寝泊まりも、昇と太田は一緒だったようです。

このような、昇の新しい生活が始まって間もない、安政7年3月3日の朝、思いがけない出来事が発生しました。それが「桜田門外の変」と呼ばれる、大老井伊直弼への襲撃と殺害でした。

この日の朝、雪が降る中、道場で寄宿生を相手に稽古を始めた頃、外が騒がしくなりました。昇は太田を呼び、「何事か、確かめてこい」と命じたのですが、ほどなくして太田が戻り、「井伊大老が襲われた」と言いました。江戸城に登城するところを、桜田門の手前で何者かの集団に襲われ、井伊大老の生死は不明と言うのです。

実は、前年10月、長州藩吉田松陰が伝馬町牢屋で処刑されましたが、小五郎や伊藤俊輔(後、博文)が小塚原で松陰の遺体をもらい受け、改葬するということがあったばかりで、松陰に教えを受けた者たちにとっては、井伊大老は仇敵でした。

井伊直弼 Wikipedia より

桜田門外で井伊大老を襲ったのは水戸藩島津藩の勤王派の武士であったのですが、昇は、小五郎が関わっているのではないかと思ったのかもしれまん。小五郎が井伊大老を憎んでいることを知っていたからです。すぐに、昇は太田を連れて、桜田門方面へ向かいました。

昇が到着した時、すでに襲撃の後片付けが行われているところでしたが、血の跡はいたるところに残り、生々しい様子であったと、自伝では書いています。

蓮田市五郎が描いた『桜田門外之変図』 Wikipedia より

ここで、昇と太田は思いがけない行動をします。それは、彦根藩士が履いていたであろう雪下駄を集めて、練兵館に持ち帰ったのです。理由は、寄宿舎に寝起きする塾生たちの履物がいつの間にか足りなくなり、不自由していたからだといいます。

このようなこともありましたが、桜田門外の変は、昇にとって、人生の転機となったようです。この後、昇は、小五郎を通して、長州や水戸など、勤王の士たちと積極的に交わるようになったからです。

琴海の嵐(11)

大村藩は、幕府によって、他の藩にはない独特の役割を命じられていました。それは、隣接地である天領、長崎の警護という役目です。

幕府にとって、鎖国時代、外国との唯一の窓口であった長崎は、貿易がもたらす富を独占するという意味でも重要な場所でした。この重要性は、安政5年(1858)の米国をはじめとする五か国通商条約の後も変わらず、外国人居留地が生まれて貿易が活発になると、益々、高まったのです。

その中、大村藩は、長崎市街地から長崎港内、港口までの警護を担いました。ただ、福岡藩佐賀藩が隔年で千人規模での兵を出し、それを大村藩五島藩とが補助するという形ですが、小藩の大村藩五島藩(石高一万五千石)にとっては大変な負担です。また、五島灘東シナ海近海の異国船取り締まりも行いましたので、幕府も、この両藩には参勤交代の賦役を緩和しました。

大村藩玖島城祉(Wikipediaより)

通常、参勤交代は、一年おきに、国元と江戸を往来しますが、大村藩では、隔年9月下旬に大村を発ち、五十日ほどで江戸に着き、翌二月下旬か三月上旬に江戸を発って大村に帰るというサイクルです。これは、季節風頼りの貿易の名残りで、外国船が来航する時期には、藩主を初め、大村兵が長崎警護を行う必要があるためでした。幕末頃は、蒸気船が貿易に使われるようになりましたので、時期に関係なく外国船が行き来するようになったのですが、大村藩の参勤交代の方式は残されました。

ところで、幕府にとって、大村藩銭函(ぜにばこ)を守ってくれる貴重な藩でありますので、参勤交代での優遇にみられるような待遇をする一方で、何かと藩政に介入することも多かったようです。とくに長崎奉行所大村藩には監視の目を光らせていたのではないかと思われます。

復元された長崎奉行所長崎歴史文化博物館内)Wikipedia より

長崎奉行所は幕府出先の監視機関として、日田(現、大分県代官所と共に九州一円に目を配っていましたが、大村藩主は、参勤交代の出発と帰国にあたっては、長崎奉行に挨拶するのがしきたりでした。また、長崎奉行が命令を出せば、それに従って、兵を出動させたり、沿岸警備を強化したりしました。

とはいえ、長崎奉行は、一般には旗本が就任するのが慣例でしたので、格式は、大村藩主が上位です。したがって、長崎奉行の命令は、幕府の命令として出されました。

この長崎奉行と、その背後にある幕府、これに対する大村藩との関係が、「琴海の嵐」の展開の重要な伏線となっています。

なお、長崎には、長崎奉行所のほかに長崎代官所という、やはり幕府の出先機関があるので、複雑です。

長崎代官所は、長崎市街地以外の天領の徴税と管理を担当し、幕府の勘定奉行の直属機関でした。長崎奉行所長崎市街地と港湾の管理と貿易から上がる租税徴収や密貿易管理などを行いましたが、ときに、奉行所代官所は協力して、治安の維持にあたることもありました。

 

 

琴海の嵐(10)

ここで、昇の生まれ育った大村藩について触れておきます。

まず、藩域を地図で示しましょう。

大村市観光振興課「大村観光ナビ」より
この地図でわかるように、大村藩域は広大です。琴海(大村湾)を挟んで、西側の西彼杵半島の全域から五島灘の島しょ部、さらに、その西は五島列島を領する五島藩、東は多良山系山稜を境にして佐賀藩に接し、南も佐賀藩諫早領、さらに長崎の天領、北は平戸藩という具合です。

大村藩の藩領は、琴海の東側の「地方(じかた)」、同じく西側の「内海(うちめ)」、南部の長崎に接する「向地(むかえち)」および五島灘に面する部分と島しょの「外海(そとめ)」の 4 つに分けられました。 
米を栽培する平野部は狭く、山がちですので、中下級の武士でさえ、芋が主食でした。一方で、島しょ部を含む長大な海岸線と海域も支配するため、豊かな海からは干鰯や鯨肉や鯨油や塩などが商品として上方に搬出されました。とくに、捕鯨から得られる収入金から支払われた冥加金は藩の財政を支えました。

さらに幕末には蒸気船用の石炭も松島で産出し、また、幕末期には産出量は少なくなっていましたが、金や銅の鉱山も発見され、さらに波佐見焼などの特産もあるために朱印の表石高二万八千石に比して実際の実入りは倍近いといわれました。

藩主の大村氏は、鎌倉時代には有力な豪族として記録され、南北朝から室町時代にかけて彼杵(そのぎ)で地歩を固めていったのですが、戦国時代、島原半島に拠点を置いた有馬氏に圧迫され、やがて従属化し、天文19年(1550)に、有馬氏からの養子、大村純忠(すみただ。天文2年(1533)-天正15年(1587))を迎え入れて、大村藩の版図の基礎が作られました。

大村純忠は、天正13年(1585)の豊臣秀吉九州征伐では秀吉に従い、本領を安堵されました。次の大村善前(よしあき。永禄12年(1569)-元和2年(1616)の時代、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、徳川家康から改めて本領を安堵され、肥前大村藩の初代藩主となりました。

この間、大村純忠は同じキリシタン大名として大友宗麟有馬晴信らと共に、天正10年(1582)に、天正遣欧少年使節をローマに派遣していますが、大村善前は島原の乱の後の幕府の眼を恐れて日蓮宗に改宗し、キリシタンには厳しくあたりました。その後、徳川幕府の時代を通して大村氏は藩主として、命脈を保ち、幕末最後の藩主、大村純煕は十二代、大村氏の祖からは三十代という歴史を誇ったのです。

大村藩主の居城を玖島城といい、現大村市に城跡がありますが、現在は、石垣の上に白漆喰の壁と櫓が再現されています。天守のない平城でしたが、東に多良岳、西に琴海を控え、今でも風光明媚な風情を浮かべています。

この風景を、かつて、文政元年(1818)5 月22 日、頼山陽は長崎への旅の途上、彼杵(そのぎ)宿から長崎口の長与へ渡る船の中で、眼前に広がる大村湾玖島城を琵琶湖と膳所城に見立てて称え、次の七言五行の詩にしました。

 海水如盆瑠璃碧(海水は盆の如く瑠璃碧なり) 
 邑屋参差岸樹隙(邑屋参差たり岸樹の隙) 
 欲説琶湖与膳城(説かんと欲す琶湖と膳城と) 
 舟中少人知上国(舟中人の上国を知るもの少なり) 
 吾行已歴万重山(吾が行已に歴たり万重の山) 
「海はお盆のようで水面は碧のガラスと見まごうほどだ。村の家々が海岸の木々の隙間からまばらに見える。この風景が琵琶湖と膳所の町の辺りに似ていることを話題にしたいと思うが、船の中に上方を知っている人は少ない。私の旅はすでに幾重もの山々を越
えてきた。 」
(「頼山陽詩選」揖斐高訳注、岩波文庫(2012 年)より。一部修正)  
 この詩に詠われた大村湾は琵琶湖の半分ほどの面積を占め、海湾とはいえ北部の針尾瀬戸早岐瀬戸の二つの狭い海口を持つだけで、湾の奥深いところにある大村辺りになれば潮の流れや干満の影響は少なく、むしろ湖と言った方が相応しいのです。事実、海水の塩の濃度も薄くなります。 
当時、大村湾は「琴海」と呼ばれたのでしょうか。

諸説ありますが、そのなかに、昔、琴という娘が添い遂げられぬ恋人を慕って海に身を投げ、その化身が美しい真珠となって現れたことに由来するという説があります。真珠は古来から大村の特産品で、大村藩の貴重な収入源でもありました。 
琴海の由来はともかく、湾の岸辺に立つと水面と目線が思いがけず近く、湖と見間違うほどの穏やかな波が一定の波長で沖合から寄せてきて、その波の形が琴の弦のようにも見えますし、岸辺を打つ波の音が、出しゃばらない琴の調べのようにも響きます。また、小高い山から眺めれば、形が琵琶琴のようにも見えます。 
幕末当時、玖島城下大村の人口は一万人程度、藩域全体の人口が十万人ほどでしたので、藩全体の一割程度の人が大村に住んでいました。