琴海の嵐(10)

ここで、昇の生まれ育った大村藩について触れておきます。

まず、藩域を地図で示しましょう。

大村市観光振興課「大村観光ナビ」より
この地図でわかるように、大村藩域は広大です。琴海(大村湾)を挟んで、西側の西彼杵半島の全域から五島灘の島しょ部、さらに、その西は五島列島を領する五島藩、東は多良山系山稜を境にして佐賀藩に接し、南も佐賀藩諫早領、さらに長崎の天領、北は平戸藩という具合です。

大村藩の藩領は、琴海の東側の「地方(じかた)」、同じく西側の「内海(うちめ)」、南部の長崎に接する「向地(むかえち)」および五島灘に面する部分と島しょの「外海(そとめ)」の 4 つに分けられました。 
米を栽培する平野部は狭く、山がちですので、中下級の武士でさえ、芋が主食でした。一方で、島しょ部を含む長大な海岸線と海域も支配するため、豊かな海からは干鰯や鯨肉や鯨油や塩などが商品として上方に搬出されました。とくに、捕鯨から得られる収入金から支払われた冥加金は藩の財政を支えました。

さらに幕末には蒸気船用の石炭も松島で産出し、また、幕末期には産出量は少なくなっていましたが、金や銅の鉱山も発見され、さらに波佐見焼などの特産もあるために朱印の表石高二万八千石に比して実際の実入りは倍近いといわれました。

藩主の大村氏は、鎌倉時代には有力な豪族として記録され、南北朝から室町時代にかけて彼杵(そのぎ)で地歩を固めていったのですが、戦国時代、島原半島に拠点を置いた有馬氏に圧迫され、やがて従属化し、天文19年(1550)に、有馬氏からの養子、大村純忠(すみただ。天文2年(1533)-天正15年(1587))を迎え入れて、大村藩の版図の基礎が作られました。

大村純忠は、天正13年(1585)の豊臣秀吉九州征伐では秀吉に従い、本領を安堵されました。次の大村善前(よしあき。永禄12年(1569)-元和2年(1616)の時代、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、徳川家康から改めて本領を安堵され、肥前大村藩の初代藩主となりました。

この間、大村純忠は同じキリシタン大名として大友宗麟有馬晴信らと共に、天正10年(1582)に、天正遣欧少年使節をローマに派遣していますが、大村善前は島原の乱の後の幕府の眼を恐れて日蓮宗に改宗し、キリシタンには厳しくあたりました。その後、徳川幕府の時代を通して大村氏は藩主として、命脈を保ち、幕末最後の藩主、大村純煕は十二代、大村氏の祖からは三十代という歴史を誇ったのです。

大村藩主の居城を玖島城といい、現大村市に城跡がありますが、現在は、石垣の上に白漆喰の壁と櫓が再現されています。天守のない平城でしたが、東に多良岳、西に琴海を控え、今でも風光明媚な風情を浮かべています。

この風景を、かつて、文政元年(1818)5 月22 日、頼山陽は長崎への旅の途上、彼杵(そのぎ)宿から長崎口の長与へ渡る船の中で、眼前に広がる大村湾玖島城を琵琶湖と膳所城に見立てて称え、次の七言五行の詩にしました。

 海水如盆瑠璃碧(海水は盆の如く瑠璃碧なり) 
 邑屋参差岸樹隙(邑屋参差たり岸樹の隙) 
 欲説琶湖与膳城(説かんと欲す琶湖と膳城と) 
 舟中少人知上国(舟中人の上国を知るもの少なり) 
 吾行已歴万重山(吾が行已に歴たり万重の山) 
「海はお盆のようで水面は碧のガラスと見まごうほどだ。村の家々が海岸の木々の隙間からまばらに見える。この風景が琵琶湖と膳所の町の辺りに似ていることを話題にしたいと思うが、船の中に上方を知っている人は少ない。私の旅はすでに幾重もの山々を越
えてきた。 」
(「頼山陽詩選」揖斐高訳注、岩波文庫(2012 年)より。一部修正)  
 この詩に詠われた大村湾は琵琶湖の半分ほどの面積を占め、海湾とはいえ北部の針尾瀬戸早岐瀬戸の二つの狭い海口を持つだけで、湾の奥深いところにある大村辺りになれば潮の流れや干満の影響は少なく、むしろ湖と言った方が相応しいのです。事実、海水の塩の濃度も薄くなります。 
当時、大村湾は「琴海」と呼ばれたのでしょうか。

諸説ありますが、そのなかに、昔、琴という娘が添い遂げられぬ恋人を慕って海に身を投げ、その化身が美しい真珠となって現れたことに由来するという説があります。真珠は古来から大村の特産品で、大村藩の貴重な収入源でもありました。 
琴海の由来はともかく、湾の岸辺に立つと水面と目線が思いがけず近く、湖と見間違うほどの穏やかな波が一定の波長で沖合から寄せてきて、その波の形が琴の弦のようにも見えますし、岸辺を打つ波の音が、出しゃばらない琴の調べのようにも響きます。また、小高い山から眺めれば、形が琵琶琴のようにも見えます。 
幕末当時、玖島城下大村の人口は一万人程度、藩域全体の人口が十万人ほどでしたので、藩全体の一割程度の人が大村に住んでいました。