琴海の嵐(9)

昇が大村藩邸での幽閉を解かれて、練兵館にも顔を出すようになるのは、安政6年(1859)5月のことでした。

この頃、小五郎は多忙を極めていました。長州藩江戸藩邸(現在の日比谷公園あたり)の大検使役という(今の会社でいう監査役か)役職に就いていましたが、さらに藩邸内の藩校、有備館の御用掛にもなり、藩士教育の世話と監督に当たることになったので、練兵館塾頭の職には手が回らなくなったのです。

そこで、小五郎は、昇を塾頭にする件を斎藤弥九郎父子に相談し、承諾を得て昇に話しました。しかし、小五郎は昇が喜んでくれると思ったのですが、意外にも、昇は「私は学問がしたい」と言って、頑なに断ったのです。

困った小五郎は、斎藤父子と対応を相談したところ、大村の国元にいる荘勇男(新右衛門)という藩士に手紙を出して、荘から藩主に伝えてもらい、昇の塾頭就任を藩から命じてもらおうということになりました。

荘勇男は、嘉永年間に斎藤新太郎(二代目斎藤弥九郎)が大村を訪れた際、藩を代表する剣士の一人として新太郎と立ち合い、散々に負け、その後、練兵館に剣を学びに出府しました。そして、新太郎の弟である歓之助と意気投合し、歓之助を大村に招くことになった立役者でした。

荘は、当時の大村藩筆頭家老、江頭官太夫の次男で、大村でも由緒のある荘家に養子で入り、藩の武館である治振軒の取立(館長)をしていました。昇の藩費出府についても、歓之助の推薦を藩主に取り次いだのが荘でした。

無論、斎藤父子も小五郎も、荘であれば、藩主に申し出て、昇が塾頭に就任する命令を出してもらえるのではないかと考えたのです。そして、この企画は見事に当たりました。

昇も、藩命には逆らえません。ただ、「塾頭就任まで、半年の猶予をいただきたい」と言いました。幽閉の後、再び通い始めた三計塾で、もう少し、勉強したいと思ったからです。もし、塾頭になれば、藩邸を離れ、練兵館に住み込んで、塾生の指導に当たることになり、勉強どころではなくなるからでした。

しかし、小五郎も練兵館に来ることができなくなり、斎藤弥九郎も塾生の指導に困っていましたので、「昇が就任するまでの半年の間、代わりの者を塾頭に就ける」ということになり、美作津山藩士の井汲唯一を塾頭にしました。

したがって、小五郎の次の塾頭は井汲で、昇は、その次の塾頭ということになり、安政7年1月に就任しました。

それにしても、江戸の大道場の塾頭というのは、武士の世界では、どこでも通用する一枚看板ということができます。

たとえば、土佐勤王党の盟主であった武市半平太は、鏡新明智流士学館の塾頭でした。また、坂本龍馬は、千葉周作が設立した北辰一刀流玄武館の運営に携わった周作の弟、千葉定吉の下で、事実上の塾頭として後進の指導に当たりました。

武市半平太 自画像

井汲も、練兵館の塾頭を辞して津山藩に戻り、藩の剣術師範となり、やがて京都に出て、尊王攘夷の剣士として活動しました。

武市も龍馬も井汲も、やがて殺されますが、武士たちにとって、大道場の塾頭経験者は、リーダーと目すべき存在だったのです。

昇が、練兵館の塾頭に就いたことは、その後の昇の人生にも大きな影響を与えましたし、そもそも、大村藩にとっては、「偉人、英雄」ともいえる存在であったわけです。