琴海の嵐(7)(訂正)

安政6年(1859)1月のある日と思われますが、練兵館の稽古を終わると、小五郎が昇に「今夜、さる藩の御重役に呼ばれている。ついでだから、お主を紹介しておこう」と言い、呉服橋御門龍ノ口にある大垣藩上屋敷に同道しました。

案内された先は、大垣藩邸内の家老部屋で、対面の相手は、同藩城代家老小原鉄心(文化14年(1817)ー明治5年(1872))でした。

鉄心は、大垣藩戸田氏一族で、浦賀奉行をしていた戸田氏栄の求めに応じて浦賀方面の警備兵を大垣本藩から派遣し、その総指揮をするために江戸に出ていたのですが、江戸の沿岸防備工事を幕府に命じられた長州藩の工事の指揮にあたっていた小五郎と知り合い、懇意となっていました。

鉄心は、幕閣にも大きな影響力を持つ、当時の著名人の一人(後、明治政府でも重用された)ですが、武芸にも大きな関心を持ち、練兵館塾頭の小五郎を呼んで、大垣藩邸の道場で出稽古を頼むほどでした。

この二人の会話の中で、練兵館に入門した後、メキメキと頭角を顕してきた昇の話が出て、鉄心が「是非に会ってみたい」という話になったのでしょう。

こういう経緯で、小五郎は昇を鉄心に紹介しました。

このとき、昇は、大村藩邸の門限が気になっていました。藩邸の門限は、暮れ六つ(大体、午後6時前後)と決まっていて、その門限を無断に破ると、「脱藩」に相当する処罰(極刑は切腹)が待っているという厳しいものでした。もし、門限に間に合わないようであれば、事前に許可が必要でした。

昇は、門限が気になりながらも、小五郎が大垣藩邸に連れて行くと、「これならば、四半刻(約30分)もあれば藩邸に戻れる」と思ったのでしょう。案内されるまま、鉄心に会いました。

 

小原鉄心

ところが、鉄心は偉丈夫な昇を一目で気にりました。しかも、話してみれば、小五郎が言ったように、見識も高く、何よりも、長崎の外国勢力の事情にも詳しかったのです。すぐに、酒席となりました。

昇は、他藩の要人である鉄心にもてなされ、あれこれと質問されるうちに、藩邸の門限のことを忘れてしまいました。酒も嫌いではなく、というより、際限なく飲めるたちです。とはいえ、夜も更けてくると、さすがに藩邸のことが気になり、鉄心に再訪を約して大垣藩邸を出ました。しかし、その夜は、雪が降りだし、半尺近い(15cm)というので、江戸では相当の本格的な雪となりました。昇が履いている下駄では、進むに進めません。結局、大村藩邸に着いたのは、子の刻近く(夜11時頃)となっていました。

一方、大村藩邸では、門限を過ぎても帰邸しない昇を藩士が総出で探し回っていました。練兵館にも問い合わせましたが、すでに日があるうちに出たという回答でしたので、江戸家老の浅田弥次右衛門は「脱藩じゃ」と判断したのです。

 

*「琴海の嵐(6)」で、昇の兄、清左衛門の出奔事件を「文久の初め」と書きましたが、筆者の勘違いで、「安政4年の初め」に訂正させていただきます。申し訳ありません。