琴海の嵐(6)

渡辺昇が出府した当時、大村藩江戸藩邸には、江戸家老として、浅田弥次右衛門という宿老がいました。禄高は二百石余で、大藩の家老職と比べれば少ない禄高ですが、大村藩では、なかなかの実力者でした。

この浅田家老が、悉く、昇にあたるのでした。多分に、昇の父、雄太夫との確執があったのかもしれませんが、元はといえば、雄太夫が、先の筆頭家老である稲田又左衛門の下で、寺社奉行などの要職を重ね、稲田家老と雄太夫の仲の良さは有名でした。しかし、浅田家老と稲田家老とは何かにつけて対立していたようで、稲田家老の隠居後、浅田家老は雄太夫を快く思わず、遠ざけようとしました。当然に、雄太夫の子である昇に対しても、快く思っていません。

また、昇の兄の清左衛門に対しても、浅田家老は同じように意地悪をしたようです。

かつて、文久の初め、藩医の尾本公同が新しい医術を学ぶために長崎に派遣された際、清左衛門が尾本を頼って長崎に留学したのですが、清左衛門は長崎に飽き足らず、江戸に出て勉強しようとして、脱藩に近い状態で出奔しました。

しかし、清左衛門が江戸藩邸に着くや、浅田家老は清左衛門に脱藩の罪で切腹を命じようとしました。慌てた父雄太夫は、執政たちに宥免を願い出て、そのことが、藩主大村純煕(すみひろ)の耳にも届き、純煕は清左衛門の才能を惜しみ、切腹を免じ、ひと月の幽閉で済ませました。

このように、浅田家老と渡辺家の仲は良くありません。

ましてや、昇が練兵館の特待生になり、名声が、あちらこちらから聞こえてくるようになると、浅田家老は面白くありません。

そのような中、ある出来事が起きました。