琴海の嵐(12)

さて、江戸の昇はどうなったのでしょうか。

昇が練兵館の塾頭になったのは、安政7年1月ではないかと思われます。塾頭になれば、大村藩邸からの通勤というのは許されません。塾頭は、塾長である斎藤弥九郎に代わって塾生の剣の指導をするのが第一の役目ですが、二千名を超える塾生を、一時に道場に集めて指導するわけには参りません。人数と日時を細かく分散します。

当時の昇の様子を、練兵館に通っていた塾生が回顧していますが、夜明けから日暮れまで、相手は変わるが、主(昇)は変わらず、相手に打ち込ませて「惜しいこと、惜しいこと」と言って躱(かわ)しながら、手筋を教えていたといいます。

目録(免許)授与の候補生を塾長に推挙したり、その実技試験の相手をすることも塾頭の仕事です。

また、練兵館には塾生が全国の藩から集まり、その多くは自分の藩の藩邸から通っていましたが、中には、練兵館に寄宿する者もいましたので、その者たちの生活管理も塾頭の役割でした。とくに、塾中法度(規則)があり、門限や飲酒などの生活態度を注意し、病気や喧嘩などにも気を配る必要がありました。

こうして、昇は、練兵館に居を移して、塾頭としての役目に励む毎日となりました。

当時の昇の補佐は、長州藩太田市之進(後、御堀耕助)でした。太田は、昇が小五郎に連れられて練兵館に来た際、斎藤弥九郎が昇の腕前をみるために、最初に対戦させた相手でした。結果は、一撃で昇が太田を失神させ、それ以来、太田は昇の傍を離れずに付き従うほどになりました。練兵館での寝泊まりも、昇と太田は一緒だったようです。

このような、昇の新しい生活が始まって間もない、安政7年3月3日の朝、思いがけない出来事が発生しました。それが「桜田門外の変」と呼ばれる、大老井伊直弼への襲撃と殺害でした。

この日の朝、雪が降る中、道場で寄宿生を相手に稽古を始めた頃、外が騒がしくなりました。昇は太田を呼び、「何事か、確かめてこい」と命じたのですが、ほどなくして太田が戻り、「井伊大老が襲われた」と言いました。江戸城に登城するところを、桜田門の手前で何者かの集団に襲われ、井伊大老の生死は不明と言うのです。

実は、前年10月、長州藩吉田松陰が伝馬町牢屋で処刑されましたが、小五郎や伊藤俊輔(後、博文)が小塚原で松陰の遺体をもらい受け、改葬するということがあったばかりで、松陰に教えを受けた者たちにとっては、井伊大老は仇敵でした。

井伊直弼 Wikipedia より

桜田門外で井伊大老を襲ったのは水戸藩島津藩の勤王派の武士であったのですが、昇は、小五郎が関わっているのではないかと思ったのかもしれまん。小五郎が井伊大老を憎んでいることを知っていたからです。すぐに、昇は太田を連れて、桜田門方面へ向かいました。

昇が到着した時、すでに襲撃の後片付けが行われているところでしたが、血の跡はいたるところに残り、生々しい様子であったと、自伝では書いています。

蓮田市五郎が描いた『桜田門外之変図』 Wikipedia より

ここで、昇と太田は思いがけない行動をします。それは、彦根藩士が履いていたであろう雪下駄を集めて、練兵館に持ち帰ったのです。理由は、寄宿舎に寝起きする塾生たちの履物がいつの間にか足りなくなり、不自由していたからだといいます。

このようなこともありましたが、桜田門外の変は、昇にとって、人生の転機となったようです。この後、昇は、小五郎を通して、長州や水戸など、勤王の士たちと積極的に交わるようになったからです。