琴海の嵐(11)

大村藩は、幕府によって、他の藩にはない独特の役割を命じられていました。それは、隣接地である天領、長崎の警護という役目です。

幕府にとって、鎖国時代、外国との唯一の窓口であった長崎は、貿易がもたらす富を独占するという意味でも重要な場所でした。この重要性は、安政5年(1858)の米国をはじめとする五か国通商条約の後も変わらず、外国人居留地が生まれて貿易が活発になると、益々、高まったのです。

その中、大村藩は、長崎市街地から長崎港内、港口までの警護を担いました。ただ、福岡藩佐賀藩が隔年で千人規模での兵を出し、それを大村藩五島藩とが補助するという形ですが、小藩の大村藩五島藩(石高一万五千石)にとっては大変な負担です。また、五島灘東シナ海近海の異国船取り締まりも行いましたので、幕府も、この両藩には参勤交代の賦役を緩和しました。

大村藩玖島城祉(Wikipediaより)

通常、参勤交代は、一年おきに、国元と江戸を往来しますが、大村藩では、隔年9月下旬に大村を発ち、五十日ほどで江戸に着き、翌二月下旬か三月上旬に江戸を発って大村に帰るというサイクルです。これは、季節風頼りの貿易の名残りで、外国船が来航する時期には、藩主を初め、大村兵が長崎警護を行う必要があるためでした。幕末頃は、蒸気船が貿易に使われるようになりましたので、時期に関係なく外国船が行き来するようになったのですが、大村藩の参勤交代の方式は残されました。

ところで、幕府にとって、大村藩銭函(ぜにばこ)を守ってくれる貴重な藩でありますので、参勤交代での優遇にみられるような待遇をする一方で、何かと藩政に介入することも多かったようです。とくに長崎奉行所大村藩には監視の目を光らせていたのではないかと思われます。

復元された長崎奉行所長崎歴史文化博物館内)Wikipedia より

長崎奉行所は幕府出先の監視機関として、日田(現、大分県代官所と共に九州一円に目を配っていましたが、大村藩主は、参勤交代の出発と帰国にあたっては、長崎奉行に挨拶するのがしきたりでした。また、長崎奉行が命令を出せば、それに従って、兵を出動させたり、沿岸警備を強化したりしました。

とはいえ、長崎奉行は、一般には旗本が就任するのが慣例でしたので、格式は、大村藩主が上位です。したがって、長崎奉行の命令は、幕府の命令として出されました。

この長崎奉行と、その背後にある幕府、これに対する大村藩との関係が、「琴海の嵐」の展開の重要な伏線となっています。

なお、長崎には、長崎奉行所のほかに長崎代官所という、やはり幕府の出先機関があるので、複雑です。

長崎代官所は、長崎市街地以外の天領の徴税と管理を担当し、幕府の勘定奉行の直属機関でした。長崎奉行所長崎市街地と港湾の管理と貿易から上がる租税徴収や密貿易管理などを行いましたが、ときに、奉行所代官所は協力して、治安の維持にあたることもありました。