琴海の嵐(8)

昇が、門限を大幅に遅れて帰邸すると、その報告を受けた江戸家老の浅田弥次右衛門は、即座に「牢に閉じ込めよ」と邸吏に命じました。無論、昇の佩刀は二本共に取り上げられました。

翌日、浅田家老が直々に立ち合って、昇に対する糾問の場が設けられました。

昇は、練兵館塾頭の小五郎の誘いで、大垣藩邸で家老の小原鉄心と会い、長崎の外国勢力の事情などを聞かれ、ついつい時間を過ごしてしまったと、正直に述べました。

ところが、浅田家老は「他藩の重役に無断で会うこと自体が藩是に反する上、わが藩が警護する長崎の事情を、問われるままに漏らすとは何事だ」と、カンカンに怒り、「斯くなる上は、入牢とか帰藩を命じるくらいでは収まらぬ。神妙に、裁可を待て」と、あたかも切腹か、悪くすれば、斬首にも処すかのような口ぶりで糾問を終えたのでした。

このとき、昇の幼馴染で、藩邸に詰めていた楠本勘四郎(後、正隆)が心配して、兄清左衛門の親友で、同じく藩邸詰めの宮原半十郎に「昇を何とか助けたい」と相談し、「小五郎に釈明させたらどうか」ということになりました。

宮原は清左衛門と同年で、二人は刎頸の友として、血を分かつ誓いを立てた仲でした。そして、藤田東湖の「正気歌」や「回天詩史」などを吟唱し、他にも仲間を引き入れ、大村藩での勤王の勉強会を結成しました。昇も、清左衛門に連れられ、勉強会に顔を出したので、互いに、よく知っていました。宮原も、ここで昇を死なせてはならないと必死だったのでしょう。

 

渡辺清左衛門

楠本勘四郎(正隆)

実は、この事件の前にも、宮原は、昇を助けています。というのも、昇と浅田家老の間が犬猿の仲だということは藩邸内でも有名でした。浅田家老は、何かと昇の行動に文句を付け、意地悪をしました。そのうち、昇が癇癪を起し、浅田家老を刺して自分も死ぬつもりだと、宮原に打ち明けましたが、宮原に「早まってはいけぬ。そのようなことをすれば、大村の父上が嘆かれるのみならず、渡辺家もけん責される」と諫められ、暴挙を止めたのでした。

話を戻せば、宮原と勘四郎は練兵館に急行し、小五郎に面会しました。小五郎は「拙者にも咎があるゆえ、出来る限りの手を尽くしたい」と言い、斎藤弥九郎に相談したところ、弥九郎は「幕閣にも顔が利く小原鉄心様に御出馬いただき、昇の助命を申し出ていただければ、大村藩も無碍には断れぬだろう」と言い、小五郎と連れだって大垣藩邸に鉄心を訪ねました。

二人から相談を受けた鉄心は、「拙者にも責がある」と言い、即座に大村藩邸に出向いて浅田家老に会い、嘆願しました。

浅田家老も、大垣藩という譜代大藩の、しかも幕閣に顔が広い鉄心の願いを断ることはできず、「極刑にはしない」こと、さらに「帰国させない」ことも約束し、結局、百日の屋敷内幽閉という処分となりました。これで、昇は、一命をとりとめたのです。

この幽閉の期間中、小五郎は勘四郎を通して昇と連絡をとり、幽閉されている長屋の窓に短冊を下げさせ、その窓から、頻繁に手紙や食い物を差し入れたのでした。大村藩邸の長屋は板塀で外の通りに面していたので、幽閉の場所さえわかれば、その窓から手紙などを投げ込むことができたのです。

この逸話は、昇と小五郎の親密な交友をあらわすものです。

ただ、幽閉の期間中、昇の助命に奔走してくれた宮原は流行病に倒れ、死んでしまいます。ペストかチフスだったのかもしれません。

幽閉を解かれて、その事実を知った昇は勘四郎に「なぜ、報せてくれなかったのだ」と詰め寄りましたが、勘四郎は「お主が絶望し、自害でもするのではないかと心配したのだ」と言い、昇も、友人の配慮に感謝したのです。

この事件を機に、昇は、前以上に練兵館での稽古に打ち込み、また、三計塾での勉強にも身を入れました。